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先日の公演の際に、
当日パンフレット用に書いた文章をここになぜか載せておきます。
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ON voice
自分より上の世代のひとの話を聞くのは、楽しいものです。
私が劇団をやめてから何年かして少し落ち着いた頃、わりと年上の舞台人のかたと時々お話する機会がありました。同じ町の人で、道で会えば軽く挨拶するかなくらいの距離感でした。
彼との会話は音楽や絵の話が多く、舞台の話をすることはほんのわずかでしたが、その頃には私も
「前は、演劇の制作の仕事をずっとしていて」
と少しだけ自分からぽつぽつ話すようにはなっていました。
本を書く人はね、作の人はね。お稽古の最初の時にね、
それ、全部自分で読むの。みんなの前で。でみんなもそれ聞くの。じっと。
え、でも二時間くらいあるんじゃないですか普通
うんそう。
それをずっと。
それをずっと。ひとりで。自分で
はあ
それでね。わかることもわかんないことも、たくさんあるからね。
今まで出席した数々の舞台稽古初日の顔合わせでも、そういう読み方に立ち会ったことはなく、出演者が集ってそれぞれが初めて読み合わせる場ばかりだったので、その話は私には新鮮でした。
でも人に訊いてみると、私よりだいぶ上の世代の演劇界では当時はあたりまえのようなことだったそうです。
それって役者さんとかスタッフさんみなさんいらっしゃる顔合わせとかですよね
そだね。だいたいね。たくさんの関係者待たせてね。
でもそこから拾えることたくさんあるからねみんな
そっか、そうですね
前職では制作という立場だったので、そういう話をお聞きしているとすぐ
どうしても「誰は何時には稽古場を出さなくちゃなんないから何時スタート厳守で」「出番ないなら呼ぶなとか言いそうな役者さんのご機嫌」などなど、ちょっと考えただけでさまざまな気苦労が思い浮かびます。
しかしそれ以上に、「書いた人が声に出して自分で全部読んでみる」という場面そのものに、ふっと心惹かれる自分がいました。
なにしろ、書いた人本人が読むという事実は、強い。
その人自身の声音、ブレス、その言葉を書きつけた瞬間の気持ち、心のどこを響かせてどこを鳴らすのか。何年かを経てもなお新しく見つけ続ける読みかたとは。
大学生の時、私の卒業論文のテーマは谷川俊太郎さんの詩でした。
詩集を読み込むことだけに懸命だったある日、房総半島の廃校になった小学校でささやかに谷川さんの朗読会が開かれるという小さな新聞記事を見つけて急遽遠出した私は、そこでたくさんのことごとに気づかされたのでした。
廃校の古びた木の教室にいっぱいの、地元の町の人。老人も子供もたくさん。私と同じく新聞記事を見つけて遠方から駆けつけたらしい文学青年がちらほら。みんな、床に体育座りやあぐらをかいて楽しそうにしていて。
人々にかこまれて自作の詩を読み始める谷川さんの声は、体にすぐにすっと入っては来ない。いくつかのひっかかりやでこぼこをともなって、聴く人それぞれがゆっくりと自分の中になじませてゆく。そうして詩がだんだん自分になってゆく感覚。あんなに何度も詩集で文字で読み込んだと自分で思っていた詩でも、ああそうかこの言葉はこういうかたちであったかとあらためて思う。
…そんな昔の一日の旅のことを、最近なぜかよく思い出すのでした。
今は私は、ひとりでものを書くことを軸としています。
言葉の海にもぐりこんでは、絵に拾い。
そういう自分ひとりの作業や世界は、とても居やすくて、どこまでも行けるような強い気持ちになることもあります。
あまり自分で自分の作品を声に出してみることはなく、どちらかと言えば別の表現としておいてみるようなことのほうが好きだったりします。言葉に見えるものを絵にしたり、音にしたり、またはその逆を。
幼い頃から、書くことや描くこと、音楽が好きだった私は、そう短くもない来し方で何周もしたあげくに、今ここに着いたのかそれとも還ってきたのかはわかりません。とりわけ長かった演劇制作者としての年月は、表に出ない集団作業が多く、個人としての創造や表現は自ら封じなくては越せないほどの激しい日々でした。
でもそのどれもが、現在の私の中にちゃんと生きていると、今ははっきりと思います。
他人が書いたものを、実際に声に発して別の人が読むということについて、ずっと考えています。
そこにはある程度以上の技量や、読み込む力やあらわしかた、そして目には見えない誰にもわからない、その読む人なりのスイッチがあるように思うのです。
迷ってもすすんでも、沈めても跳ばしてもいい。
どうしてこの言葉の次に、この景色が来るのか。
この文字の向こうに見えるものは何なのか。
それはもう、書いた人からの大切なバトンなのかもしれないし、いやそもそもバトンなんか渡すかよという人もいるかもしれないし、それらすべてを汲むことなぞありえないのかもしれません。
ただ、他人が書いた言葉を、自分なりの声にしてまたひとに渡してゆく作業やその過程は、とてもいとしいもののように私は思っています。
そのいとしさを演劇というかたちにかえて、この作品をつくりました。
私だけでは絶対にできないものを、今回はたくさんの関係者と一緒に、またどこかの誰かに渡してゆきたかったのです。
関わってくださっているすべてのみなさまに心より感謝いたします。
ご来場のみなさま、どうぞお楽しみに。
書店で本を買う。
ひとに手紙を出す。
言葉を声に出して読む。
音を鳴らせて歌をうたう。
コーヒーをさしだす。
ひとからひとへ、新しい季節へ、つむいでは渡されてゆく日々の無数のしぐさは、うつくしいなと静かに思います。
ここからは、このひとへ渡る。信じて渡す。
そうしたら、自分だけでは見えなかったものを見せてくれるかもしれない。
足して引いて足して、作っては壊して、そうしてまたちゃんとつむいでゆく。
物語の輪郭は次第にくっきりしてゆき、今までは聴こえなかった音がメロディとなって流れだす。
その姿を観たり聞いたりするのが、私はずっと好きだったのかもしれません。
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