転校の多かったこども時代の私は、必然的に本と音楽にのめりこんでいた。
小3か小4のことだ。
毎日、県立図書館と市立こども図書館を使いわけるほど本好き子供だった私は、ある日うすぐらい書庫の隙間で突然、「あ、この本に選ばれた」と思ったことがある。
それは、天沢退二郎『光車よ、まわれ!』だった。
ある日、読む子供をひきつけてひきつけてやまない強い世界。
もっと、この世界を読みたいと思った。二つの図書館を行ったり来たりして見つけた、同じ作者の『オレンジ党』シリーズを、夢中でつぎつぎと読んだ。
三つの魔法も彼らの戦いも、まったくもって身近なことだった。
こども図書館の庭には動かないSLがあって、勝手によじのぼって遊んでいいようになっていて、友達のいない私はひとりでそのうえで、「今日はこの本があるから私は絶対大丈夫だ」などと思っていた。
そのあとすぐに再び転校した私は、新しい土地のあちこちに、物語の影を勝手に見出しては「そうそう」とひとりで思っていた。
きっと。
その頃の10歳くらいの私には、それくらい強い物語と、その頃はじめたトランペット、音楽のちからがなくてはならなかったんだと思う。
本をひらくたびに、とんでもない物語と世界を、垣間見させてもらっているという感覚が、私をまもるでもなくなにをするでもなく、ただただ強くよりそってくれていた。
その本の作家、天沢退二郎氏が、詩人で宮沢賢治の研究をなさっていると知ったのは、もうちょっと大きくなってからのことだ。
宮沢賢治をちゃんと読み始めたのは、それがきっかけだった。
おさない私にこんな物語をひきずりだして見せてくれた作家さんが研究する宮沢賢治、ってどんなにすごいんだろうと思って。
それからそれから何十年。
10年くらい前、非常に具合が悪かった頃、声も言葉も出なくなっていた時、
『銀河鉄道の夜』だけは、ページをめくれた。
絵本も本も、いくつもいくつもあった。何度も何度も読んだ。
ああ、まだ私、本読める。嬉しい。って思いながら。
その中で、ますむらひろし氏の『銀河鉄道の夜』は、いちばんだいじにしてきた。
自分なりの、猫の絵物語を書き始めた頃だったから。
そう、この感覚を私はだいじにつかまえていよう。と、ただそれだけ思っていた。
出会いは、ひとだけでもなくものだけでもなく、それらは、日々つむがれてゆく。
おさない私が書庫で出会ったのは、一冊の本それだけなのではなくて、
あらゆる物語そして世界をつむいでゆく鍵ひとつ。
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